浅井三姉妹 二女 "お初" と 名門 京極家 高次 との愛の巣? 大溝城の物語

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大溝築城

出典:高島町商工会青年部発行 若鮎 第4号 2001 No.4

織田信澄の養父、磯野員昌は、大正六年(1578)、信長の怒りをかい高島の地を離れた。その結果、信澄は同年2月3日信長より高島一群が与えられ郡内のほぼ中央にあたる新庄城(新旭町)から南端の大溝城(勝野)へ移ったのである。

信澄の築いた大溝城の詳細は明らかでない。「織田城郭絵図面」では、本丸の南・東が琵琶湖の入江、洞海(乙女ケ池)に接していたことが確認される。内湖の洞海に面する築城は、技術的にも困難が予想されたが、あえて湖岸の入江築城に踏み切った理由は、大溝が湖西の良港であり、西近江路(北国海道)が通じる水陸交通の要衝であったのみでなく、背後に長法寺山をもち、南は明神崎で湖面と山地が接触する狭あくな地形が、戦闘防備の上から有利であったからであろう。

大溝城および城下の状況を「織田城郭絵図面」からみると、本丸は城堀によって囲まれている。城堀の水門は洞海にあり、湖水が流入していた。したがって、城堀を内堀とすれば、洞海と大溝湊が外堀の役割を果たしたとみてもよいであろう。

本丸の櫓3つは、侍町・町家の側に、城堀より外の櫓四つは、洞海と琵琶湖(大溝湊)に面して建設されており、湖上に重点をおいた水城であったことが予想される。そして、城堀の外は侍町通りをめぐらせ、侍屋敷で本丸を囲み、城西は、職人の町家(職人町)と足軽町に、総門から本町通りとなる城北地域には、新庄城下の商人を移住させて商家(町家)の町並みを建設した。町並みは小田川まで続き、本町通は、永田村を経て北国海道に交わり、所領の高島郡全域に通ずるものであった。洞海と琵琶湖岸に面する大溝城(水城)を中心とする城下の建設は、その町割状態がばぼ現任に存続しており、信澄の大溝築城か大溝町の基をなしたのである。

その大満城および城下の大工作事については、音羽村大工、村谷家の「口上書」に「織田七兵衛様、高嶋郡御知行之時、大溝御取立被レ遊候砌、私先祖村谷次郎左衛門江、御城内御城下共、家作事方之大工棟梁被ニ仰付一候」とあり、大溝近村の音羽村に在住する大工村谷次郎左衛門を大工棟梁に、郡内に散在する大工を動員して、城および城下の大工作事をすすめていったのである。大工棟梁村谷家については後述するが、信澄の築城作事方大工棟梁となった村谷家は、それ以降、大溝城下の大工所を代々支配することとなった。

 

大溝城主の交替

信長の甥で、高島郡域を領有し、大溝城主となった信澄は、信長の「御一家の御衆」「御連枝の御衆」とも呼ばれる織田一族のなかでも有力な武将の一人であった。信澄死後の大溝城は、信澄を大阪城で攻め殺した丹羽長秀が城主となった。丹波長秀は、羽柴(豊臣)秀吉とともに信長後の織田政権の維持に協力したことから、若狭国(福井県)と近江国高島・滋賀の2郡を知行することとなって大溝城主となったが、大溝城は代官の植田重安に守らせた。その後、長秀は秀吉とともに大正十一年、賤ケ岳(伊香郡)の合戦に勝利して越前(福井県)、若狭、加賀(石川県)半国を領有することになり、越前府中城(武生市)主となった。

長秀移封後は、高島郡の一部が秀占の直轄領に,一部は秀吉の家臣加藤光泰の所領となって光泰が大溝城主となった。光泰はもと丹波国周山城(京都府北桑田郡京北町)の城主で一万七〇〇〇石を領有していたが、海津城(マキノ町)、大溝城へと移るにつれ、二万石を領有し、天正十三年には大垣城(大垣市)に移封された。加藤光泰の転封にともない、同年六月、播磨国神西郡(兵庫県神崎郡)を領有していた生駒親正が、秀吉から高島郡二万三五〇〇石を宛行われ、大溝城主とな⊃だ。しかしその翌年、親正が伊勢国神戸城(津市)に移されたため、再び秀占の直轄となって芦浦(草津市)の観音寺が代官を勤めた。

秀占直轄領のあと、大正十五年(一五八七)、京極高次が大溝城主となる。高次は、妹の松丸が秀吉の側室であった関係から、大正十二年に高島郡田中郷(安曇川町)の二五〇〇石が与えられ、同十四年にはさらに加増された。翌十五年には、秀吉の命によって豊前国馬獄(大分県宇佐郡)の要塞を攻略した恩賞として高島郡城一万石が与えられ、大溝城に入った。その高次も、天正十八年には二万八〇〇〇石を領有して八幡城(近江ハ幡市)主に、文禄四年(一五九五)には、滋賀郡に六万石を領して大津城(大津市)主となった。

高次後の大溝城は、天正十八年に織田三四郎が、三四郎のあとは再び秀吉の直轄領となり、代官吉田修理が大溝城に入って領地支配にあたった。その後については「文禄四年岩崎掃部佐治ム、慶長八年ヲ壊水口へ移ル、其後代官所トナル、羽鹿加左衛門預り、元和五年分部左京亮光高大溝ニ移ル」とある。慶長八年(一六〇三)の大溝城取り壊しについては「織田城郭絵図面」にも「甲賀郡水口江移ス、月城ノミ残ル、代官居住ス」とあって、慶長八年ころに取り壊したのかもしれない。

分部氏は元和五年(一六ー九)八月に伊勢国安濃郡(三重県)から光信が入封する。以後幕末まで、大溝城主は分部氏であっ。た。

以上、織田信澄の大溝城築城以来、約四〇年間の城主の交替を述べてきたが、信長・秀吉時代はめまぐるしく城主が交替している。高島郡城の支配拠点となった大溝城主の交替は、それが単に領主の交替のみでなく、秀吉の度々の直轄領にみられるように、高島郡城が軍事・交通、または経済上重要な位置を占めていたからではないかと想像される。

参考文献
 高島町史 昭和五八年
 滋賀県中世城郭分布調査八 平成三年

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