浅井三姉妹 二女 "お初" と 名門 京極家 高次 との愛の巣? 大溝城の物語

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大溝城跡

↑ 大溝城跡 (JR近江高島駅より徒歩5分) ↑

滋賀県の北西部に位置する高島市は、琵琶湖に面していたため食料CIMG0930.JPGが得やすく住みやすい土地であったため、古来から人々が住んでいた形跡が残っています。

高島市ではありませんが、琵琶湖の西側の湖西地方には「和邇」とか「蓬莱」と言った渡来人がつけたと思われる地名が現在も残っていますし、高島市の北部 マキノ町のマキノ高原には古代の製鉄に使った用具を研いだことを意味する「ヨキトギ」という名前の川が存在し、付近では製鉄の過程で出来る廃棄物も出土されています。

ところが、現在の高島市周辺には鉄鉱石の鉱脈が発見されておらず、何故この地に古代の製鉄所があったのかは謎です。 しかし、この様なことから湖西地方には、大陸から持ち込まれた高度な文化や技術を持っていた人達が生活していたと言われています。

その後、時代が下ってくると近江の国 滋賀県は、都に近かったことや、琵琶湖という人々の移動の動脈を抱えていたことから、天皇家とも関係が出来たりし、また軍事的に重要な地であったことから、大小の戦の場となりました。

高島市安曇川町には継体天皇(在位 507-531)が生まれたときに、母が石にもたれかけたと言われる「安産もたれ石」が残っています。

そして、現在のJR近江高島駅の南東部にある静かな内湖、乙女ヶ池は 壬申の乱(672年)で多くの人々が亡くなったと伝えられています。CIMG0927.JPG

その後、万葉の頃(7世紀後半から8世紀後半頃)になると、京都から北陸の敦賀や小浜を抜けて東北地方に向かう人々が琵琶湖西岸沿いの西近江路を活発に利用するようになり、陸路や琵琶湖上を利用した人々の往来が更に増えてきました。

現在の高島市の南端にある白髭崎あたりは 当時は水尾(ミオ)と呼ばれていたそうで、京都から西近江路を北へ上り三尾崎(白髭神社の岬)を通過すると、その視界に高島の平野部がひらけると共に、三尾崎の陰になって大津方面が見えなくなることから、旅人達にとっては感慨深い地であったようです。

その様なことも理由なのか、三尾崎のすぐ北側の勝野付近で詠んだ詩が、万葉集に七首あります。

琵琶湖南端から流れ出る瀬田川岸にある石山寺に、紫式部(970年代に没)が源氏物語を書いたと言われる庵がありますが、高島市南端の白髭神社には紫式部の詠んだ詩の石碑が建てられています。 紫式部も西近江路を通って高島の地を訪れていた様です。

そして、いよいよ鎌倉時代から戦国時代にかけて、高島の地では、嘉禎元年(1235年)に佐々木高信が 田中郷(今の安曇川町田中付近)の地頭となり、その一族の越中氏・能登氏・朽木氏・永田氏・横山氏・田中氏・山崎氏が活躍しました。

この一族は、当時「西佐々木七人」「七頭」「高島河上七頭」「七佐々木」などと呼ばれていました。CIMG1050s.jpg

この西佐々木一族の惣領家である佐々木越中氏が、現在の高島市新旭町の饗庭野丘陵地の麓に残されている清水山城の城主であったと言われており、「四ツ目結」と言われる近江源氏佐々木氏の家紋を使っていました。

その後、更に時代が進み戦乱の時代になると、浅井長政(1526-1573)や織田信長(1532-1582)の名が高島の地に現れてきます。

信長は、水運と同時に軍事的な面で琵琶湖を重要視して、琵琶湖北東部の長浜城、琵琶湖南東部の安土城、西南部の坂本城、そして高島の地である琵琶湖北西部の大溝城の4ヶ所で交通の要衝であった琵琶湖を固めようとします。

そして、信長の甥であった織田信澄(1555-1582)に大溝城の築城を命じたのです。

sin.jpg琵琶湖の東岸にいた浅井長政とその妻 お市の方との間には、三人の姉妹がおり、長女は後に豊臣秀吉(1537-1598)に嫁いだ淀(1569-1615)で、3女は お江(ゴウ/1573-1626)です。

そして、2女の お初(1570-1633)は、織田信澄の後に大溝城の城主となった京極高次(1563-1609)と新婚時代に3年間に渡り大溝城で暮らしたという説があります。

実際に二人が大溝城で生活したかどうかについては、その事実はないという歴史研究家もおられますが、織田軍によって小谷城が攻撃され、お初の父である浅井長政が自決した際に、お市の方と一緒に三姉妹は信長の元に送られ保護されたという史実は残っています。

その後、お市の方と三姉妹は、織田信包の伊勢上野城で平穏な日々を送っていた様ですが、その当時分部氏は伊勢にいて三姉妹の面倒を見ていたと言われています。

そして、天正十年(1582)の本能寺の変で信長が殺されたことで四人の生活にも影響が及び、その後、賤ヶ岳の戦いや北ノ庄城落城があり、その時にお市の方は柴田勝家とともに死ぬのですが、三姉妹は勝利者秀吉の保護を受け、長女の茶々は秀吉の側室となり、次女お初は京極高次の正室となりました。

伊勢にいた分部藩は、京極高次の後に大溝城藩主となることから大溝の分部氏の初代藩主となった分部光信の祖父である分部光嘉は、伊勢でお初と接点があったはずと言われています。

京極高次とお初が結婚したこと、高次は大溝城藩主となったこと、そして後に大溝城主となった分部藩が三姉妹の面倒を見ていたことから、二人が大溝城で暮らしていたのではないかと言われているのかも知れません。

ところで、高次は名門京極家を再興した人物としても名高く、家紋は はやり「四ツ目結」でした。

こう言ったことから、清水山城の西佐々木一族(家紋は京極家と同じ「四ツ目結」)と、京極高次との関係についても興味が持たれるところです。

京極家は室町時代に数ヶ国の守護を兼ねており名門の大名家であったので、お初は 三姉妹の中では一番格上の家に嫁いだことになります。

言い伝えによると、お初は 細見の女性で、市の美しさを受け継ぎ誉れ高い美女であったそうで、姉・茶々と妹・江とは幼少の頃から大変仲の良い姉妹であったそうです。

その後、京極高次は大津城に移り、一旦は西軍に属しましたが、東軍に寝返った高次は大津城で籠城し、毛利元康や立花宗茂ら西軍の大軍勢を足止めしたことにより、本合戦には間に合わせず、東軍勝利の大きな要因となったそうです。

先に述べたように、時代が江戸期に入り元和5年(1619年)8 月27日、伊勢上野藩から移封された分部光信が2万石で大溝城に入部することになりました。

分部藩は、清水山城があった 現在の高島市新旭町から、商工人やお寺などを移して大溝に城下町をつくったと言われており、新旭町に存在する地名やお寺の名前が、大溝の地にたくさん残っています。

なお、JR近江高島駅から徒歩5分のところに、大溝城跡といわれている石積みが残っています。 天守は 後に水口城に移されたと言うことになっていますが、ここは乙女ヶ池のすぐ近くで、小規模ながらも水城の面影が残っています。

その西側、背後にせまる山を登っていくと、標高500メートルぐらいの山中に、長法寺跡と呼ばれている遺構があります。 現在は、大規模な石積跡が残るだけですが、比叡山 延暦寺系のお寺であったため 信長に焼かれてしまったという説もありますが、火災の跡は無いともいわれており、何故消滅したのかははっきりしていないようです。

この長法寺跡については、昭和31年と32年に地元の高島高等学校歴史部によって大規模な調査が行われましたが、その直後の高島高等学校校舎の火災により貴重な記録も失われてしまったようです。

CIMG0923.JPGJR近江高島駅周辺には、大溝藩の名残が感じられる街並みが残っており、ウォーキングやサイクリング(JR近江高島駅の中の観光案内所でレンタサイクルを借りられます)でゆっくり楽しむと、いろいろな発見があるかも知れません。 使われなくなったいくつかの商家が修復されて「びれっじ」として解放されている他、武家屋敷も1軒だけですが保存されています。

その他、高島郡誌や、高島町史、安曇川町史、新旭町誌、更には最近発行された朽木村誌(これらは公立図書館のネットワークを通じて貸し出し可能と思われます)などを調べると、まだまだ驚くような発見があると思います。

CIMG0925.JPGおまけ情報として、高島市は高温多湿の気候風土から発酵食品文化が花開いたといわれており、現在も市内に造り酒屋さんが5軒ある他、鮒鮨屋さん、麹屋さん、醤油屋さん、醸造酢を造っておられるお店などがhata.JPGあります。 大溝の古い商家を再生した「びれっじ2号館」は、昔 醤油を販売されていた商家であったといわれています。

また、旧高島町には、JR近江高島駅からバスで20分ほど行ったところに、畑(ハタ)という在所があって、大規模な棚田が保存されています。 最近、農家民宿が始まり 高島の古き良き時代を体験することもできます。

(文責: たかしま市民協働交流センター NiGA) 

注:「江~姫たちの戦国」キャラクターについては、大河ドラマ「江~姫たちの戦国」滋賀県推進協議会の使用許可を得ています。

 


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busyo.jpg我は 京極高次じゃ! 元大溝藩主で 嫁は お初 と申す♪



ハイキングシミュレーション
ガイド付きツアー
DISCOVER WESTハイキング
浅井三姉妹
初姫が歩いた城下町コース
2010.11.03 実施

(協力)
高島観光ボランティア協会
(社)びわ湖高島観光協会



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なお、本サイトの内容を公表する目的は、色々な情報を集めてくると、この様なストーリーが見えて来るという一例であり、今後 多くの人達によって より正確な調査が行われるキッカケとなることを期待して公表するものです。

最後に、京極高次やお初、更に高島市における戦国史に関しては、高島市地域SNS「高島きてねっと!」内の公開コミュニティにおいて情報交換を行います。



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